スケジュール Schedule

1996.10

1996.10
1996年 -秋- (前編)


9月 リサイタル イン ワルシャワ

 たったひとりでヨーロッパのホテルに宿泊していると、去年までは寂しいと感じることが多かったのですが、デビューしていろいろな街に出掛けていくうちにこうした時間の過ごし方が上手になってきたように思います。ピアニストである自分、つまり社会人の自分と人間であるオリジナルな自分が仲良く過ごせるようになったということなのでしょうか。女性だから、外国だからといって逃れられない、一人で越えなければならない時があります。

 パリに来ています。ワルシャワでのリサイタル前にパリでサロンコンサートが入っており、また10月のパリでのリサイタルの打ち合わせも兼ねてやって来ました。

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 パリを右岸・左岸に分けてセーヌは流れていますが、その中洲のような形で市のほぼ中心にシテ島とサンルイ島があります。サロンコンサートはこのサンルイ島の河岸にあるパリ・ポーランド図書館で開かれました。図書館はポーランドを代表する詩人であるアダム・ミツキェヴィチ(1798 - 1855)の資料館にもなっています。彼はポーランド独立運動のために活発な政治活動を行い、祖国愛に燃えた亡命の詩人としてポーランドの象徴的存在です。パリ亡命中にショパンとも交流があり、ショパンは彼の詩に影響を受け、歌曲やバラードを作曲したといわれています。


ワルシャワでのリサイタルポスターの前で



 さて、この図書館にはベーゼンドルファーのピアノがありますが、たいへん古いため必ずしも弾き易いピアノとはいえません。けれども眼下を流れるセーヌや室内の絵画、調度品によって醸しだされる独特の雰囲気が私は気に入ってます。このようなサロンでは、クラシックが日常生活に自然にとけ込んでいる様を強く実感することができます。

 ワルシャワは思いのほか暖かく、寒さに弱い私には大変助かりました。また、宿泊ホテルがリサイタルのスポンサーのひとつでもあったので何かと気を配っていただき快適に過ごすことが出来ました。気になる練習もショパン音楽院で充分な時間をとっていただけましたので落ち着いた気持ちで公演日を迎えることが出来ました。ピアニストである私たちにとって、本番の日に向けていかにストレスを感じないように過ごせるかということが演奏には大きく影響していきます。ですから滞在の条件特に練習などとても気になるところなのです。

 ショパンコンクールの際に、私は自分の演奏日が来るごとにショパンの心臓が埋めこまれた柱のある聖十字架教会に出かけバラの花を捧げていました。今回のリサイタルでもバラを公演日の午後に捧げ、コンクールのときと同じく、ショパンの作品を祖国で演奏出来る喜びと感謝の気持ちを、柱を通して彼に伝えました。

 リサイタルはショパンコンクールの会場である思い出深いフィルハーモニーホールで行われました。ほぼ1年ぶりに再びこの舞台に立つと、昨年10月のさまざまな思いが鮮やかによみがえってきます。このホールで日本人がソロリサイタルを行うのは初めて(と思う)と主催団体の方々は興奮していましたが、私にとってはリサイタルの収益の方が気になっていました。なぜならこのリサイタルは、ガンなどの末期患者のためのホスピス建設に必要な資金を得るためのチャリティーを目的としていたからです。このリサイタルのお話をいただいたとき、チャリティーと聞き、果たして私に何ができるだろうかと不安を覚えました。しかし、ピアニストとしてピアノを弾くことで、このような形で役立てる、私にもできることがあると気づいたのです。通常の倍以上と聞く入場料金に、ソリストとして自分の集客力を心配いたしましたが、多くの方々に実際にご来聴いただきほぼ満席となりました。

 このリサイタルのスポンサーには宿泊ホテルの他にも、成田-ワルシャワ間の航空券を提供して下さったルフトハンザ・ドイツ航空、スカンジナビア航空、ポーランド航空などの航空会社やトヨタ自動車、清涼飲料水メーカーやポーランドのラジオ局がなっており、また在ポーランド日本国大使館が強く後援して下さいました。

 ワルシャワでのリサイタルは大変貴重な経験となりました。来月8日にはパリに発ち、15日にはサル・プレイエルのショパンホールでリサイタル、17日の命日にはポーランド図書館でサロンコンサートを開くことになっています。ショパンが生まれ愛し続けたポーランドと多くの作品を書き生涯を終えたフランスで連続してリサイタルを開けることを大変幸運に思っています。

 ショパンコンクールに参加することは私にとっての夢の実現であり、生きていることの証明でした。1年前の10月1日、私は第13回ショパン国際ピアノコンクールに参加する130人のひとりとしてワルシャワの街に立っていました。あのときの私が願ったこと、信じたこと、祈ったこと、それらは今でも私を支えています。いつの日か近いうちにに、ピアニスト宮谷理香が生まれたポーランドで、もう一度フィルハーモニーホールで今度はショパンだけのプログラムを奏でたいと願っています。

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