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1997.9.19

1997.9.19
リカ・ミヤタニの誕生 Vol.1


歩き始めたリカミヤタニ -1991~1992- 前編

 大学2年生の夏、ザルツブルグで開かれている夏期セミナーに参加し、この国で私は20才になりました。 初めてのヨーロッパ、世界中から集まる意識の高い、しっかりとした目標を持ったピアニストの卵達。 この夏のセミナーで私は、強い衝撃を受けました。 そして「ピアニストをめざす努力をしたい」と思ったのでした。 しかしこの時はただ漠然と「がんばりたい」と思っていたに過ぎません。 私に具体的な目標ができたのは、もっと後になってからのことなのです。

 翌1992年、この年のセミナーでは、ザルツブルグから車で約1時間の距離にある街で演奏する機会をいただきました。 小さなホールでしたが聴衆がほとんど全員、その街で暮らす人々、つまりオーストリア人ということで、私は緊張というよりは興奮していました。
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この演奏会で弾く曲を決めるため、担当クラスのアンジェイ・ヤシンスキ教授に相談したときに私は、「What can I play?」とでも聞いたと思うのですが、それに対して「As you like.」という返事が返ってきました。 -アズユーライク 自分の好きな曲を- 私はそれまでにアズユーライクなどと言われたことがなかったので、面喰らいながらも自分の弾きたい曲を口にしたら、「それはとても良いプログラムですね」と言われてもう一度驚いてしまいました。



そのときのプログラムは、ショパンのエチュード Op. 10-5/8/12, Op. 25-3/4, バラード1番というものでした。 バラードとエチュードの Op. 10-8, Op. 25-4 は、1995年にショパンコンクールの会場でも弾くことになります。

 この頃に具体的にショパンコンクールを意識したことはありませんでした。 しかし、私は全く覚えていないのですが、ヤシンスキクラスの発表会が後日あって、先生がその批評をクラスでされた際に、私のエチュードを「ショパンコンクールで通用するエチュードです。」とおっしゃっていたそうです。

同じクラスにいた桐朋の先輩で、今でも仲良くさせていただいている方が最近になってそのことを教えて下さり、「あのときは、ほんまかいな? と思ったけど、本当にそうなってビックリした。」と言われて、私はそんなことは全然記憶になかったので、彼女の「ほんまかいな?」の表情の方がおかしくて、今でも思い出すとつい笑ってしまうのです。 とにかく当時の私はショパンが好きではありましたが、まだまだコンクールを受けるには全然レパートリーが不足していたのでした。

しかし、どんなに不足していても、アズユーライクと言って演奏会に送り出してくれた先生の信頼が嬉しくて、私はこのときにピアノを弾く喜びを強く感じたのを覚えています。 しかし、翌日になって喜びが思い出に変わったとき、この喜びこそある意味では私の弱点であり、この程度のことで喜んでいてどうする! という気持ちが生まれたところから、私のコンクールへの第一歩が始まったように思います。

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