スケジュール Schedule

1997.5.20

1997.5.20
−青の季節−

 中国には昔から人の一生を四季に見立てる発想がありました。日本でも同じように人間の生涯を四季の循環になぞらえています。若さを象徴する青春という言葉の意味が分かりました。

玄冬(げんとう) −冬− 誕生から成人までの20年。植物の種子が芽を出す季節。春を待って力を蓄えている時期。天が暗く夜が長い冬は、玄・黒で象徴される季節。
青春(せいしゅん) −春− 20才から40才の前半。若葉が繁り、枝を伸ばす季節。飛躍・発展の時期。緑の、青の季節。
朱夏(しゅか) −夏− 40代後半から60才。太陽が赤々と燃えて、植物は花を咲かせ、結実の準備をする。輝くばかりに華やいだ時期。朱・赤の季節。
白秋(はくしゅう) −秋− 60才から。人生の実りを収穫する時期。季節も人生もさわやかな心境となる。どんな色にも染まらない白で象徴される。


まず、自分から声をかけてみては (〜4月26日)

     「ピアノの練習が嫌になること、ありませんか?」 そんなメールを、大人になってからピアノを習い始められた方からいただきました。 最近は練習が嫌になることはありませんが、時々は疲れてしまったりすることもあります。
     そんなときは出来るだけサッと気分転換をして、なるべくポジティブに考えるようにしています。 自分の求める音が得られないときそして、「何か調子がよくない」と感じたとき、私は自分で処理できるのは最初の3秒位までと思っていますから、すぐに気持ちを切り替えています。 そして3秒間隔でテンポ良く進んでいくうちに上手に気分転換できれば、きっと大丈夫。奇麗な音がきっと心に響いてくるはずです。

     もうひとつの方法としては、思い切って弾いてみてはどうでしょう。とにかく音を出しながら前へ進んでみること。 きっとそこに活路があります。

     ピアノとの関係は、人間との関係ととても似ていると思うことがあります。 困ったとき、苦しいときは、自分の心に閉じこもらず、まず音を出してみること、まず声をかけてみることってどうでしょうか。

     昨晩は横須賀でのリサイタルでした。 演奏会が終わり、楽屋に2人の高校生が訪ねて来てくれました。 そして休憩時間に書かれた手紙をいただきました。 横須賀在住の16才、ルミさんと有紀子さん手紙をどうもありがとう。 演奏会に出かけ、休憩時間に手紙を書き、それを楽屋に持っていく。 そんな簡単なようで出来ないことに、音楽 — 芸術のもつ力の素晴らしさを感じずにはいられませんでした。

    2人の手紙はどちらも、16才の素直な気持ちが溢れていて、今は悩みがとっても深く感じられても、きっと大きく成長していくと信じています。



心の扉を開いて (〜4月29日) インターネットで願うこと

     演奏を終えてから約3時間。都内のホールであればそれくらいの時間が経った頃には、私は自分の部屋に戻り、その日の演奏を振り返っています。 緊張は去り、まだ醒めやらぬ興奮の中で、ひとり部屋で静かな時を過ごします。 私はホームページの原稿を書くときは、まずB5サイズのルーズリーフに思い出すままに書き留めていきます。

     字の乱れることや、文章が途中で途切れることがあっても気にせずに、感じるままに心の風景を文字に変えてみるのです。 私がホームページに期待し、インターネットの未来に魅力を感じるのは、こうして演奏を終えた夜に、その日の私が何を考え、どのような演奏を目指していたか。 その気持ちをすぐに文字にして発表することができるからなのです。

     しかし、実行に移すのは難しく、自分の演奏会が終わるたびに今度こそと思うのですが、毎回家に帰り着くころには気力を失ってしまい、まだ一度もその日のうちに発表することが出来ないでいます。 ただ最近では、その日のうちにこだわらずとも、まずはこうしてホームページを続けることが大切なのだとも思っています。  心をロックするのではなく、常に扉を開いておくことで、いつか機が熟し、自然にできる日が来るのかもしれません。



1996年度 日本ショパン協会賞をいただいて (〜5月3日)

     4月30日津田ホールにて、第23回 日本ショパン協会賞の受賞式がありました。 表彰会場では時間の都合もあり、1分間ほどで私の感謝の言葉を述べさせていただきました。 あれから数日、私なりに今思う気持ちを、ここに残しておきたいと思います。

     精神力、技術、体力。 一般に「心・技・体」といわれるこの3条件を、私はショパン協会賞をいただいて、改めて考え直しています。 プロフェッショナルピアニストとしての自分をより高めていくため、もっと深い集中・精神力、高度の技術、強靭な体力を得るために、私は決して急がず、無理をせず、無駄やむらを省き、息の長いピアニストを目指していけたらと思っています。

     1トン積みの車に2トンの荷物を積むのは無理。 半トンしか積まないことは無駄。 2トン積んだり、半トンになったりするのがむら。 1トンの車にはいつも、1トン前後の荷物を積むのが合理的、能率的な車の使い方です。

     こうした使い方を守りながら、「心・技・体」を高めることで、私という車はやがて2トン、5トンという夢や喜びを運べるようになれればと願っています。

    ショパンコンクールに続き、日本でも非常に権威のあるこの賞をいただき、大変誇りに思うと同時に、だからこそ張り切り過ぎて無理をするのではなく、無理をすれば無駄やむらが生まれることを避け、じっくりと自分の音楽を作りあげていきたいと思っています。



外が雨の日には・・・ (〜5月10日)インターネットの魅力

     そんな日の私は、ピアノの鍵盤ではなく、「到着メール」を見るためにパソコンの前に座り、こうしてキーを叩いています。 「到着メール」が届いていると知るだけで、外が雨で少し肌寒く感じられても、私の気分はとても良くなって、まるでエネルギーをもらっているような気持ちになります。

     人間関係がコミュニケーションで成り立っている現代で、その伝達手段として最も利用されているのが電話。 逆に最近最も使われなくなっているのは手紙だと思うのですが、いかがでしょうか。

     8割以上の人が、ワープロや電子メールの年賀状を味気ないと感じているという記事を読んだ記憶がありますが、私もその意見に賛成です。
     私は手紙やカードを書くことが好きで、気持ちを伝える手段としても最も大切なことと考えています。 感謝の気持ちを伝えたり、季節のご挨拶など、自分のことばで、しかも手書きで表すことは、とても美しい習慣です。

    しかし私信としてなら、すでに電子メールは充分な市民権を持ち、新世紀に向かっては、ますます認知されていくものと感じています。 電子メールでは、字の上手下手や便箋・封筒のセンスなどに気をとられることもなく、簡単に通信できるところが魅力ですよね。

     たとえ手書きでなくとも、書く人のオリジナルな言葉で、気持ちが込められたものであれば、充分心に響くことを私の心は知っています。



ピアニストの声が響くとき(〜5月14日)

     このところマイクを持つことが多かったように思います。 4月25日の横須賀、29日の大宮、30日は東京の津田ホールで、5月に入っては8日に東京の青山でというように、この3週間私はとても特殊な体験をしたような気がします。 クラシック音楽会では、演奏者がステージで聴衆に話しかけることは非常に稀なケースです。 しかし最近では、こうすることがとても大切なことに思えているのです。

     今までは、ピアニストは演奏することでその存在理由が満たされていたのかもしれません。 しかし今日においてはそれだけではなく、単なるピアニストを超え、人間としてまた女性として、どのように生きているのかも問われているのかもしれません。 ピアニスト・人間・女性という3次元で音楽を表現することが、クラシックの世界にも必要になってきたのでしょう。

     ピアニストは、演奏時にはずっと右半身を聴衆に向けており、正面を向くことは少なく、ましてやマイクを持って話すことなど本当にまだまだ少ないことだと思います。 でも私はこれからは、求められればこうした機会を前向きに考えていこうと思っています。 ただそれが時にはピアニストだけでなく、聴衆の集中力をも奪ってしまうことにも注意しなければなりません。 昨年は、音楽大学と一般大学で、演奏とともに“トーク”をさせていただきました。 今年の秋には、神奈川県の高校でも同じような機会があるかもしれません。

     音楽家がステージで話すことを“トーク”と言い表すとして、私は“トーク”に関しては自分で好きとか嫌いとかいう明確な意見はありませんが、ピアニストの声が響くとき、みなさんはどう思われますか?



祖父の残したもの(〜5月19日)

     私の祖父の一生はあまり長いものではありませんでした。 第2次大戦後、今の沖縄県は長い間アメリカの統治下に置かれ、1972年にようやく日本に返還されて“沖縄県”となってから、この5月15日で25年が経ちました。

     戦争末期の沖縄を伝える写真を、週刊誌やテレビの映像で目にする度に、私は、祖父がどんな気持ちでシャッターを押していたのだろうと考えます。 私の祖父は、第2次大戦が終結し、アメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で、日本が降伏文書に署名する際に乗船・撮影を許された日本側唯一の(現共同通信社)カメラマンでした。 戦争の悲惨な姿を残すことで、愚かな人間に過ちを繰り返させないようにするために、きっと祖父はシャッターを押していたのではないかと思うのです。 そして平和な世を願い、“平和を象徴するもの”を家族には学ばせることを願ったと聞いています。

    若くして父を失った私の母は、形あるものよりも、私や兄の教育に力を注いでくれました。  “平和を象徴するもの”として母が私に選んだのは、クラシックバレエとピアノでした。 小学校4年生まで私はピアノよりもバレエに夢中でしたが、どちらかに専念しなければならない時期を迎え、私はピアノを選んだのでした。

     時が流れ、戦後50年の夏がやってきました。

     一昨年の夏、マッカーサーに随行したアメリカ人カメラマンであるカール・マイダンスさんが、当時彼が撮影した写真に写っている日本人を捜しているという話題が、NHKで紹介されました。 そしてそれがどうも祖父らしいということで、うちに確認の連絡が入りました。

    それは、当時珍しかった日本人カメラマンの祖父を撮影した写真だったのです。 後日、NHKの方々のご厚意のおかげで、カール・マイダンスさんのご希望通り写真を直接手渡していただき、わが家では久しぶりに祖父の話が、夢や願いが語られました。 その模様が放送されたビデオを私は何度も見ながら、逢うことの出来なかった祖父を想っていました。

     あの夏は私にとっても大変思い出深い夏で、10月に迫っていた第13回ショパン国際コンクールの準備のために、連日のように練習に励んでいました。 ワルシャワへの出発を前にして、私は祖父の仏壇に手を合わせながら、自分が選んだ道のようでも、こうして家族に支えられて今日まで歩み続けてこられたこと。 そして何よりも、平和を象徴することを学ばせるよう指示してくれたことに感謝して、コンクールの舞台へ向かったのでした。

     ショパンコンクールから1年半。 私は今、音楽を通して多くの方々とコミュニケーションを取れるようになりました。 演奏だけでなく、ときにはマイクを持ち、自分の想いを声にして。 またときにはこうして文字にして、自分の過去を振り返ったり夢を語ったりしながら、「青の季節」を、悔いのないように生きていきたいと思っています。


1997年 5月20日
  宮谷 理香
 

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