宮谷理香プロフィール Profile

過去の主要なリサイタル

宮谷理香デビューリサイタル 1996

東京公演
日 時: 1996年3月23日(土)19:00開演
会 場: サントリーホール
入場料: S席5,000円、A席4,000円、B席3,000円(全指定)
主 催: IVS音楽出版株式会社、日本テレビ放送網株式会社
後 援: IVSテレビ制作株式会社
協 賛: 武田薬品工業株式会社
※就学前のお子様はご入場頂けません


大阪公演
日 時: 1996年3月16日(土)19:00開演
会 場: いずみホール
入場料: (全指定)一般4,000円
主 催: 読売テレビ、読売新聞大阪本社
後 援: いずみホール
協 賛: 武田薬品工業株式会社
協 力: IVS音楽出版株式会社
(当日指定)学生2,500円 当日午後5時より座席券と引換
※就学前のお子様はご入場頂けません
デビューリサイタル

宮谷理香ピアノリサイタル
当日配布のプログラム

Message(デビューリサイタルのチラシより)
宮谷理香さんのショパンは、清潔で正攻法の音楽が、審査員に評価されたものと思われる。今後素直にのびてほしいものと期待しています。
小林 仁
(ピアニスト、東京芸大教授、ショパン・コンクール審査員)

 
最近のショパン演奏において独創性や聴衆のうけを狙った演出等を強調するきらいがあるが私はそれを好まない。理香の演奏はポーランドの正統派ショパンの奏法をうけついだものとして私は高く評価しております。
ハリーナ=チェルニー・ステファンスカ
(ピアニスト、ショパン・コンクール審査員)

 
宮谷理香は、多くの参加者の中で、その折り目正しく正確な演奏が光っていました。私は彼女の演奏の中に、輝かしい将来を期待させる才能を感じ取りました。
パウル・バドゥーラ=スコダ
(ピアニスト、ショパン・コンクール審査員)

お祝いのMessage(当日のプログラムより)
『理香さんのこと』

宮谷理香さんとはもう10年を越すお付き合いになりました。彼女のことを一言で言うと、「聡明で折り目正しく、どんな小さなことにも隅々まで心配りがある方」と思います。
大学二年生のころから夏休みを利用してヨーロッパに勉強に出かけるようになりました。「自分の音楽を認めていただけました」と声を詰まらせて私に報告して下さったのを覚えております。理香さんの一途なひたむきな勉強がやゝもすると一人よがり的な演奏になりかねないということもありましたが、今は大きく鳥瞰を持った演奏に発展して参りました。第十三回ショパン国際ピアノコンクールでの演奏は、理香さんにとって生涯忘れることのできない貴重なものでした。私は第二次予選の彼女の演奏をヴィデオで観ましたが、とても落ち着いてなかなか美しく弾いており、「よくもまぁあのような大変なステージで」と思いました。中学生の頃からあこがれのショパンの国、ポーランドのワルシャワで演奏が出来ると言う喜びと感謝の気持ちが一杯で、あがらなかったそうです。
ショパンの心臓が祀られてある聖十字架教会に、バラの花を一次では一輪、二次では二輪、と言うように毎回捧げて祈り、心を落ち着けて静かにイメージトレーニングをしたそうです。
帰国の途中では、パリにあるショパンのお墓に報告参りをしてきたと聞き、「お主中々やるね」と感心いたしました。今秋九月十四日にワルシャワのフィルハーモニーホールでリサイタルをして下さるという嬉しいニュースも頂いており、彼女は今ひじょうに充実して一つ一つ大切に勉強に励んでおります。今回のリサイタルで皆様に少しでも喜んで頂けるような演奏が出来ますようにと心から祈っております。
1996年2月   桐朋学園大学音楽学部名誉教授 松岡貞子


『デビューリサイタルをお祝いして』

フレデリック・ショパンはポーランドの生んだ素晴らしい作曲家であり世界中で愛されています。しかし演奏するのは大変難しく、誰にでも可能なわけではありません。
私は宮谷理香の演奏をショパンコンクールの前から何度か聴く機会がありました。彼女の演奏はとても知的であり、彼女がどんなに真面目に勉強するかを感じました、ですから、今後も良い方向に彼女が進んでいくことに間違いはないでしょう。彼女のショパンは非常に自然で、透明感があり、詩的で、エレガントで、どの音ひとつをとっても耳に不快な音を出しません。
理香はショパンコンクールにおいて、1次審査から最終のオーケストラとの共演まで、すべてを大変良く準備していました。そして非常に才能を発揮してくれたことを心から喜んでおります。 
特に第1次審査においては「バルカローレ」をとても美しく弾きました。それに加えて、第1次審査での「エチュードOp.10-8、Op.25-4、」2次審査での「ノクターン」と「スケルツォ」、3次審査での「マズルカOp.59-1」は特にすばらしく、コンクール期間中にライヴCDとして会場で発売されました。
また、最終審査ではオーケストラとの演奏会用ロンド「クラコヴィアク作品14」「コンチェルト第2番」を協演し、特にポーランドの伝統音楽と言える「クラコヴィアク」は良い演奏でした。それは音楽的にも構成的にも聡明さを感じさせることです。
現在、桐朋学園大学研究科に在学中のこのピアニストの将来を考えると、素晴らしい音楽家にさらに成長していかれる事は確かでしょう。彼女の誠実さが、ひとりの新しい音楽家の誕生につながったのです。その成功は、日本の人々にとっても大変嬉しいことに違いないことでしょう。
第13回ショパン国際ピアノコンクールから、理香のようなプロフェッショナルとしての要素をじゅうぶん持っている若い日本のピアニストが生まれたことを、心より喜ばしく思います。
1996年1月   ハリーナ=チェルニー・ステファンスカ
(ピアニスト、ショパン国際ピアノコンクール審査員)


『第13回ショパンコンクールを聴いて』

“はじめにスルタノフありき・・・” 1995年の第13回ショパン国際ピアノコンクールを一言で言えばそんな感じだった。それはさながらスルタノフを軸とした巨大な渦とでも評すべきもので、ワルシャワのフィルハーモニーホールを満たした聴衆は、誰もが―たぶんスルタノフ自身も―彼の1位を信じ、彼の演奏に熱狂的な拍手を贈り、ブラヴォーを叫んだものだった。実際彼のテクニックは桁外れのもので、恐らくショパン自身だって彼ほどには弾けまい、とさえ思えるほどの演奏だった。だが皮肉なことに、彼がその天馬空を征くが如き技術を誇示すればするほど、ショパン像は遠ざかってしまったのだ。
 そんな中でいかにも瑞々しく、自然なカンティレーナでショパンを歌っていたのが宮谷理香さんだった。ただ、これほどの大コンクールともなると、大抵の日本人出場者については、その氏、素性は分かっているつもりだったが、申し訳ないことに、私はそれまで宮谷さんの名前を知らなかった。彼女の演奏について最初に聴いた時にまず印象付けられたのは、どこにも余計な力みや誇張のない、自然な素直な音楽だということである。その演奏を表するなら、自然体、と言ったらわかっていただけると思う。
 眦を決したような派手なパフォーマンスが圧倒的な喝采を浴びる中では、彼女の演奏は決して大向う受けするものではない。しかし一次、二次と予選をスイスイと通過し、失礼な言い方を許して頂けば、気が付いたら本選に進んでいた、と言うのが、ショパンコンクールでの私の正直な感想であった。それほど宮谷さんの演奏は自然で無理がなく、アクの強い、誇張された表現の多かった中にあって、一服の清涼剤にも等しい爽やかなショパンだった。
 あの熱狂のショパンコンクールから4カ月、ワルシャワの聴衆を魅了した宮谷理香さんの明るい微笑みと、精緻な感覚に溢れるショパン演奏に今夜再会することを楽しみにしている。
佐野公男(音楽評論家、日本ショパン協会事務局長)

演奏者からのMessage(当日のプログラムより)
『心を映す鏡~ショパン』

 3月―誰にとってもこの季節には、静かに自分自身と向き合った思い出があるのではないでしょうか。
「何もせずに自らの可能性を閉じてしまうのではなく、これからは自分の夢を自分の言葉で語っていきたい」そう私が思ったのは、1994年の3月―大学の卒業式へ向かう朝のことでした。
卒業後に研究科へ進めることが分かった時、大学時代のようにコンクールと距離を置くのではなく、今後2年間は積極的に参加しようと考えていました。当時の私にとってショパンコンクールは遥か遠くに霞む山のような存在でしたが、自分の気持ちだけは真っ直ぐにその山を目指していました。

 1995年10月、ワルシャワで開催された第13回ショパン国際ピアノコンクールにおいて、私は第5位入賞という思いがけず高い評価をいただきました。日本人であっても、学生であっても、ひとりのショパンの表現者として期待を寄せていただくことを知り、嬉しさと同時に大きな責任を感じています。
 コンクールでの私の第1次審査は最終日の午後でした。練習時間以外はコンクール会場に出かけて他の参加者の演奏を聴いたり、気候が良ければ公園を散策したりしていたので、2,3日もすると練習場所のワルシャワ音楽院から聖十字架教会~サスキ公園~フィルハーモニーホールというコースが出来上がりました。同じ道を辿るにしても、出来るだけ反対側を歩いたり違うベンチに座ったり、単調になりがちな生活に極力変化をつけ、新鮮な気持ちを失わないように気をつけることで自分を支えていました。
 コンクール期間中の最大の不安は、どれだけ静かな気持ちで本番を迎えられるかと言うことでした。第1次予選の朝、流石に緊張が高まり、私はホテルのそばの地下街へ行きバラを一本買い求めました。
 本番を前にしてどうしても聖十字架教会へ行き心に渦巻く思いを告げたかったのです。そうすることが、唐突ながら義務のように感じたのでした。教会に入り、左手の柱に向かって静かに歩きます。いつもこの前に立つと心が和んだものでした。バラを捧げ、柱に触れ、挨拶だけは私の知っている数少ないポーランド語で、あとは日本語で語りかけました。
「今日という日が来ました。さっきまで不安でいっぱいだった私の心は、いま、このように落ち着いています。あなたによって生きる喜びを得、生きる意義を知ることが出来ました。
あなたに感謝をこめて、今まで支えて下さった人たちに感謝をこめて、私はこの日を永遠に忘れません。」
ショパンの心臓が埋め込まれている柱を離れ、もう一度感謝の言葉を繰り返し、後はもう振り返ることなくコンクール会場へ向かいました。
 翌日の審査発表で自分の名前を耳にした時、他人の喜びを自分のことのように喜んでくれる人たちのいることを知り、人の温かさを感じ、私は自分がどれほど周りの人たちに支えられて生きているかを実感したのでした。その後の発表のたびに、例え一瞬の握手であっても、同じ日本の参加者から声をかけていただいたことが、わざわざ手を差し出して下さった心の広さが私を大きく勇気づけていました。「何もせずに自らの可能性を閉じてしまうのではなく自分の夢は自分でしか語れない、自分の夢を話そう」と思いきって参加したコンクールで、私は人の心の美しさや大きさにも触れたのでした。
 2次審査は演奏時間が30分を越えるプログラムとなり、個々のオリジナリティが表れてきます。私は2次のプログラムが大好きで、これらの作品をポーランドで、コンクールと言うステージで演奏できる事に大いなる感激を味わっていました。その日の朝も2本のバラを捧げ会場に向かいました。ステージでは、最初の一音に指を触れる瞬間が、心臓のある柱に触れる瞬間の動きと重なって、演奏の間中ショパンとの一体感を感じ続けていました。夜中になっても、あの時の一体感を口にするのが怖くて、口にすれば消えてしまいそうで、ホテルの部屋でひとり窓に顔を寄せて、頬が冷たくなるまで聖十字架教会を見つめていたのでした。
 2次審査のステージで突然ショパンとの精神的な繋がりを感じた私には、もう一度ワルシャワでソナタとマズルカと言うショパンを代表する作品を演奏させていただけることに感謝の気持ちで一杯でした。
この時ほど人前で弾けることを感謝した日はありませんでした。いま自分が感じているもの、果たしてそれは何なのか、ピアノの音がメッセージになって自分に語りかけてくることに驚き、不安を覚え、また興奮していました。そして、あらゆる感情が過ぎ去った時、きっと誰もが最後に行うように、気がつくとこの気持ちが消えないようにと祈り続けていたのです。
 最終審査に進む6人が選ばれた翌17日は、コンクールは休みでした。私にとってこの日は特別な日で、この日に聖十字架教会で静粛な時を過ごすことがコンクール参加が決まってからの私の願いでした。
 ショパンがどこへ行き、何を見て、誰と出逢い、どのような夢を語ったのか、多くを想像によってしか埋めることが出来ません。本を読み、作品に触れ、ショパンを愛する人々の言葉に耳を傾け、それはすべて「ショパンを人間として理解すること。単なる作曲家ではなく、彼をひとりの人間としてその人生を見つめること・・・」の証なのです。たったひとりの人間に、それも出逢ったことのない遠い国の遠い時代の人間に私は大きな影響を受け、自分が有意義と感じる時間を過ごすテーマをもらいました。10月17日はショパンの命日です。彼は20歳でポーランドを旅立ち、2度と生きて祖国へ戻ることはありませんでした。あの日、献花の列に並ぶ私たちがお互いを知る日は来なくとも、心の中ではショパンによって結びつけられているのを感じて、音楽の持つぬくもりにこころが満たされる想いでした。

 私にとってピアノは私自身を映し出す「鏡」のようなものです。なかでもショパンは最も自然に喜怒哀楽といった人間的な感情を表現できる「心の鏡」のように感じています。ショパンを皆様との懸け橋として、心の交流が出来れば、この上ない喜びです。
 ピアニストの仕事、それは単に演奏することだけではなく、使命感をも要求されると思うのです。これから自分がピアノを通して何が出来るのかを考えながら、ショパンコンクールの入賞者としての責任と期待を感じて、今後もショパンを中心に演奏活動を続けていけたらと願っております。

 11本目のバラはコンクール後に訪れたパリの彼の墓前に捧げ、私のショパンコンクールは終わりました。何かの終わりは何かの始まりであるように、私の第一歩がここに始まります。今日の日を迎えられたのは、ショパンへの想いが通じたからと信じています。

  本日は、夢の第一歩であるデビューリサイタルにご来聴いただきありがとうございます。また、このような機会を与えて下さいました各社にも併せて心より御礼申し上げます。
 1996年3月―いま私は、自分が夢と思っていた山に登り、その山で見た風景を「音」だけでなく「言葉」でも描いてみたいと思いました。

 新しい春が来て、私は新しい夢を見はじめています。
宮谷理香

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